病院サイバー対策に137億円・回線集約に全額補助——厚労省概算要求が暴いた「保守回線乱立」の病巣と、医療インフラ防衛の構造転換
厚生労働省が令和9年度概算要求に医療サイバー対策費137億円を計上。予算の94%が「外部接続点の集約」に注がれ、補助率は異例の全額国費負担(10/10)。武蔵小杉病院の13万人流出や奈良病院の教訓、SASE導入、経済安保推進法との連動から医療防衛の構造転換を読み解く。
厚生労働省が令和9年度(2027年度)予算の概算要求において、医療機関のサイバーセキュリティ対策費として約137億円を計上した。前年度の当初予算額がわずか1億円であったことと比較すれば、額面上は130倍を超える桁違いの増額に見える。
しかし、この数字の真の核心は単なる「予算規模の膨張」ではない。真に注目すべきは、予算全体の約94%にあたる129億円が「外部接続点の適正化・集約化」という一点に集中投下されていること、そしてその補助率が「10分の10(全額国庫負担)」という極めて異例の制度設計になっていることである。
なぜ国は、病院のネットワークの「入口(外部接続点)」を塞ぎ、束ねるためにこれほどの巨額公金を投じるのか。背景には、令和6〜7年度の悉皆調査で浮き彫りになった「1つの総合病院に数十本もの正体不明な保守回線が勝手に引き込まれている」という背筋の凍るような現実がある。
さらに2026年2月に起きた日本医科大学武蔵小杉病院での約13万人患者情報流出、2026年8月末に最終検証結果が公表された市立奈良病院の「誤作動による診療停止」騒動、そして経済安全保障推進法の基幹インフラ制度への医療分野追加など、医療インフラを巡る防衛環境は劇的な転換点を迎えている。
本稿では、厚労省の概算要求資料、国内外の最新インシデント事例、技術アーキテクチャの変遷、そして現場の運用の壁から、日本の医療サイバー防衛が直面する構造転換を多角的に読み解く。
1. 137億円の94%が「入口の集約」に向かう理由
5事業を束ねた統合パッケージの内訳
厚生労働省が公表した令和9年度概算要求において、「医療機関のサイバーセキュリティ対策」は5つの事業を束ねた1つのパッケージとして位置づけられている。
| 事業名 | 要求額 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 医療機関におけるサイバーセキュリティ確保事業 | 129億円 | 外部接続点の適正化・集約化・監視・SASE導入支援(補助率10/10) |
| 医療機関におけるセキュリティ人材活用推進事業 | 3.4億円 | IPAの支援者リスト活用促進、外部専門家とのマッチング支援 |
| 医療分野におけるサイバーセキュリティ点検事業 | 2.3億円 | 経済安保推進法の特定社会基盤事業者に想定される病院の点検 |
| 医療分野におけるサイバーセキュリティ対策調査事業 | 1.2億円 | 研修と初動対応支援チームの派遣、平時アセスメント |
| 医療分野におけるサイバーセキュリティ演習実施助成 | 5,500万円 | NICTのCYNEXを活用した実践演習の自前開催支援 |
| 合計 | 約137億円 | 5事業を統合運用 |
医療DXの全体像を整理した厚労省の資料では、これを「外部接続点の点検・適正化」に約132億円、「サイバーセキュリティ人材活用推進・育成」に約5億円という2本の柱に集約している。
この配分を見て誰もが抱く疑問は、「なぜ129億円もの予算が外部接続点(入口)の集約だけに注ぎ込まれるのか」という点だろう。その答えは、過去2年間に国が実施した現場調査の結果にある。
「見える化」が暴いたシャドー保守回線の恐怖
厚生労働省は令和6〜7年度(2024〜2025年度)にかけて、全国の電子カルテ導入病院を対象に「外部接続点の見える化支援事業」を実施した。病院の敷地内に外部ネットワークとつながる通信回線がどこに何本存在しているのかを洗い出す作業である。
その結果明らかになったのは、医療機関のIT部門や経営層すら把握していない「シャドー保守回線(シャドーコネクション)」の乱立だった。
一般的な中規模・大規模病院には、電子カルテシステムをはじめ、医用画像管理システム(PACS)、臨床検査システム、生理検査機器、CT・MRIなどの放射線機器、薬剤鑑査システム、そしてナースコールや建物管理システムに至るまで、数十社に及ぶ異なるベンダーの機器がひしめき合っている。
これまで、各医療機器・システムベンダーは「保守やトラブル対応を遠隔から迅速に行うため」という名目で、病院側のファイアウォールやルーターを経由せず、自社専用の通信ルーターや安価な市販VPN機器を勝手に設置し、直接外部インターネットや自社ネットワークへ接続していた。
病院のシステム管理者に聞いても「どのベンダーがどこに回線を引いているか全貌がわからない」「退職した担当者しか契約を知らない」「契約解除したはずのベンダーの保守ルーターが通電したまま放置されている」という状態が、全国の病院で常態化していたのである。
外部接続点が院内に何十箇所も無秩序に開いている状態は、防壁で囲まれた城のあちこちに秘密の裏口が無施錠で開け放たれているようなものだ。攻撃者は頑丈な正面玄関(病院の公式ファイアウォール)を攻める必要はない。セキュリティ対策が脆弱な、片隅の保守ルーターを1箇所突破するだけで、城内(院内LAN)へ容易に侵入できてしまう。
令和9年度の129億円は、この「無数に開いた裏口」を物理的・論理的にすべて塞ぎ、厳格に管理された単一または少数の正規ゲートウェイへ集約・統合するために用意された予算なのである。
2. 対照的な教訓:武蔵小杉病院・九州大学病院・市立奈良病院
病院ネットワークの構造的脆弱性と防衛の成否を如実に物語るのが、近年に国内で発生した主要なインシデントの対比である。
日本医科大学武蔵小杉病院:ナースコール保守VPNから13万人流出へ
2026年2月に公表された日本医科大学武蔵小杉病院のインシデントは、まさに「保守回線の盲点」を突かれた典型例となった。
攻撃者の侵入経路となったのは、医療機器ベンダーが保守用に使用していた外部接続VPN装置の既知の脆弱性だった。侵害されたのは電子カルテそのものではなく、院内の「ナースコールシステム」の管理サーバーであった。
当初、同院が発表した患者情報の漏洩規模は「約1万人」であったが、フォレンジック調査の進展に伴い、2月27日の第5報では約13万人分へと大幅に拡大した。さらに患者情報だけでなく、病院職員や2021年以降の臨床実習医学生約1,700人分の個人情報漏洩も確認された。
なぜナースコールシステムのサーバーから、これほど膨大な患者情報が流出したのか。同院の報告によれば、ナースコールシステムは病棟での呼び出しに患者氏名や病室情報を表示するため、過去に入院歴がない外来患者も含めた患者基本情報が自動的に送信・蓄積されるシステム設計になっていたという。
外部接続点のセキュリティ管理がベンダー任せにされ、院内ネットワーク内部でのアクセス権限が適切に分離されていなかったことが、被害を10倍以上に拡大させる致命傷となったのである。
九州大学病院:セグメンテーションが果たした「最後の防波堤」
一方で、同じランサムウェア攻撃を受けながらも、被害を最小限に食い止めた事例もある。九州大学病院で発生した事案では、外部から不正侵入を受け、患者43人分の手術動画などが流出するおそれが生じたものの、電子カルテシステムや基幹診療業務への影響は完全に回避された。
明暗を分けたのは、ネットワークセグメンテーション(分離・細分化)の徹底である。
被害を受けた端末やシステムは、診療用ネットワークから厳格に分離された独立セグメントに配置されていた。そのため、攻撃者が特定の端末を乗っ取り、内部でランサムウェアを展開しようとした際にも、電子カルテや処方システムが存在する診療系セグメントへの「横展開(ラテラルムーブメント)」が物理的・論理的にブロックされたのである。
入口を塞ぐこと(接続点の集約)と並び、侵入された場合でも内部で自由に動かせないようにゾーンを区切る(セグメンテーション)ことの重要性を証明した好例と言える。
市立奈良病院:監視装置の誤作動による「診療停止パニック」
2026年8月31日に外部専門家委員会の検証報告が公表された市立奈良病院の事例は、防衛の難しさに新たな視点を突きつけた。
同院では2026年4月21日夜、ネットワーク監視装置が不正通信の疑いを示す異常を検知した。過去に徳島県つるぎ町立半田病院や大阪急性期・総合医療センターがランサムウェアによって数カ月間の診療停止に追い込まれた記憶が生々しい中、同院は即座に「サイバー攻撃を受けた疑いがある」と判断。二次被害を防ぐため、電子カルテなどの全システムを遮断し、翌日から外来診療や手術の中止、救急受け入れの停止に踏み切った。
しかし、その後の徹底的な調査によって判明した原因は、サイバー攻撃ではなく、セキュリティ監視装置のソフトウェア更新に伴う不具合(誤検知)であった。
このインシデントは、「サイバー攻撃を恐れるあまり、過剰な遮断によって自ら医療崩壊を引き起こしてしまう」という現代の医療現場が抱える新たなジレンマを浮き彫りにした。専門知識を持つセキュリティ技術者が院内にいない場合、警告が本物の攻撃なのかシステムのバグなのかを迅速に切り分けることができず、地域医療に甚大な空白を生んでしまう。
入口の集約化と同時に、正確な脅威判定とインシデントハンドリングの支援体制がいかに不可欠であるかを、この事件は如実に示している。
3. なぜ「補助率10分の10」なのか?——病院の財務構造と制度設計
令和9年度の「医療機関におけるサイバーセキュリティ確保事業(129億円)」において、最も政策的に踏み込んだ点が「補助率10分の10(全額国庫負担)」という設計である。
通常の国の補助金事業では、補助率は2分の1や3分の2にとどまり、事業者は一定割合の自己資金を拠出することが求められる。なぜ今回は全額を国が負担するのか。
病床規模別の補助上限額
要求資料において示された病床規模別の補助上限額は以下の通りである。
・400床以上(大病院・特定機能病院など) : 上限 6,600万円
・200〜399床(中規模病院・地域中核病院) : 上限 4,500万円
・20〜199床(中小病院・ケアミックス病院): 上限 2,100万円
さらに、国の点検事業(2.3億円)を受審した特定機能病院などには、上限額の増額措置が用意されている。
診療報酬に依存する病院経営の限界
国が全額負担に踏み切った最大の理由は、医療機関の財務構造上、セキュリティ投資の自前調達が極めて困難であるためだ。
医療機関の収入の大半は公定価格である「診療報酬」によって厳格に決められている。一般企業のように「セキュリティ対策費がかさんだため、商品の販売価格に転嫁する」ということは一切許されない。さらに近年、エネルギー価格の高騰、人件費の上昇、医薬品の納入価格改定などが病院経営を直撃し、全国の自治体病院や民間中規模病院の半数以上が赤字経営に喘いでいる。
このような状況下で「自腹で数千万円を出して外部接続点を改修してください」と求めても、経営陣は「今すぐ壊れていないネットワークにお金を回す余裕はない」「電子カルテの更新時期まで待つ」と先送りにせざるを得ない。
しかし、1つの病院がサイバー攻撃で倒れれば、救急搬送のたらい回しが発生し、近隣の他病院に患者が殺到して地域全体の医療機能がドミノ倒しのように麻痺する。サイバーセキュリティはもはや個々の病院の内部問題ではなく、電気や水道と同じ「公衆安全・社会インフラの防衛」なのである。だからこそ、国は「10分の10」という強力な財政出動によって、着手のハードルを制度の側から一気に引き下げたのだ。
補正予算の「継ぎ足し」から当初予算への転換
もう一つの重要な変化は、財源の位置づけである。
これまで医療セキュリティ対策の補助金は、年度末の「補正予算」で散発的に計上されることが多かった。令和7年度補正予算でも15億円が確保事業に充てられている。しかし、補正予算はその年度限りの単発事業であることが多く、医療機関側にとっては「来年も予算が出るか分からないため、複数年にまたがるネットワーク更改や運用監視サービスの長期契約が結べない」という大きな足枷となっていた。
令和9年度概算要求では、高市政権が新設した「『強く豊かな日本』投資枠」を活用し、通常歳出のシーリング(概算要求基準の上限)に縛られない形で、当初予算として137億円が計上された。
当初予算として恒常的な財源が確保されることは、医療機関がベンダーと長期的な保守・監視契約を結び、計画的なセキュリティ刷新を進めるための強固な基盤となる。
4. 技術アーキテクチャの転換:レガシーVPNからSASE・ゼロトラストへ
今回の129億円の確保事業が目指す技術的ゴールは、単に「LANケーブルを抜くこと」ではない。要求資料には、「SASEなどのクラウドサービスの利活用も推進する」と明確に記されている。
日本の医療ITが長年囚われてきた「境界防御(閉域網神話)」を解体し、クラウドを前提としたモダンなセキュリティアーキテクチャへ移行することが本質である。
【従来の境界防御モデル(崩壊)】
外部インターネット ──── [境界FW] ──── 院内LAN(電子カルテ・端末・医療機器)
│
各ベンダー保守回線 ── [個別のVPNルーター群] ─┘ (内部に入れば何でもアクセス可能)
▼ 転換(令和9年度の集約モデル)
【ゼロトラスト / SASE集約モデル】
外部保守ベンダー ──┐
院内リモート端末 ──┼─→ [クラウドSASE / ZTNAゲートウェイ]
オンライン資格確認 ──┘ ・多要素認証(MFA)
・端末健全性検査(ポスチャ)
・最小権限の暗号化トンネル
│
▼
【院内マイクロセグメンテーション】
├─ [電子カルテゾーン]
├─ [医療機器ゾーン(閉域・仮想パッチ)]
└─ [一般業務・インターネットゾーン]
SASE(Secure Access Service Edge)とZTNAの導入
SASEとは、SD-WAN(ソフトウェア定義広域ネットワーク)と、ZTNA(ゼロトラスト・ネットワークアクセス)、SWG(セキュアWebゲートウェイ)、CASB(クラウド・アクセス・セキュリティ・ブローカー)などの各種セキュリティ機能をクラウド上で統合して提供するアーキテクチャである。
これを病院ネットワークに適用することで、以下のような劇的な変化がもたらされる:
- 拠点の集約と接続経路の可視化: 院内に乱立していた物理的なVPNルーターを撤去し、外部からの通信はすべてクラウド上のSASEゲートウェイを通過させる。誰が、いつ、どの機器に対して通信を行っているかが一元管理のダッシュボードで完全に可視化される。
- 多要素認証(MFA)の強制: 厚労省ガイドライン第6.0版でも強く求められている「多要素認証(ID・パスワードに加えてワンタイムパスワードや生体認証などを組み合わせる認証)」を、保守ベンダーの接続時にも漏れなく適用する。これにより、流出した認証情報による不正ログインを防ぐ。
- 最小権限アクセスの適用(ZTNA): 従来のVPNのように「接続したら院内LANのすべてが見える」のではなく、ナースコール保守業者にはナースコールサーバーの特定ポートだけ、PACS業者には医用画像サーバーの特定領域だけにアクセスを限定する。
医療現場特有の「パッチを当てられない」問題への解
病院のIT環境が一般企業と決定的に異なるのは、「薬機法(医薬品医療機器等法)の認証」という分厚い壁が存在することだ。
病院内にあるCTスキャンやMRI、超音波診断装置、生体情報モニターなどの医療機器は、ハードウェアと組み込みソフトウェア(多くは古いWindows 7やWindows 10、組み込みLinuxなど)が一体となって医療機器として国の承認・認証を受けている。
そのため、OSに深刻な脆弱性が見つかったとしても、病院側やITベンダーが勝手にWindows Updateを適用したり、市販のウイルス対策ソフトをインストールしたりすることは法的に許されない。機器の誤作動を引き起こすリスクがあるため、医療機器メーカーの正式な検証と改修手順を経なければならず、結果として数カ月から数年間にわたり既知の脆弱性が野放しにされる。
SASEやマイクロセグメンテーションの導入は、この「機器本体を触れない」制約に対する極めて有効な処方箋となる。機器そのものにパッチを当てられないのであれば、機器の手前にあるネットワーク側で侵入や異常通信を遮断(バーチャルパッチ / 仮想パッチ)し、万が一の際にも他のシステムへ通信が拡散しないよう厳重に隔離するというアプローチが実現できるからだ。
5. 経済安全保障推進法・サイバー対処能力強化法との連動
今回の厚労省の予算措置は、医療政策の枠内にとどまるものではない。国家安全保障に関わる法規制の大きな潮流と完全に連動して動いている。
経済安全保障推進法:医療分野の追加公布
2026年6月17日、経済安全保障推進法(基幹インフラ役務の安定的提供の確保に関する制度)の対象分野に「医療」を追加する改正法が公布された。
同法の施行期限は公布から1年6か月以内と定められており、遅くとも2027年12月中(令和9年度中)までに施行される。かつて港湾分野が追加された際は公布から約11か月で施行された経緯を鑑みれば、2027年前半の施行も十分に視野に入る。
医療分野が基幹インフラ制度に組み込まれると何が起きるのか。 全国の特定機能病院(大学病院など)をはじめとする約20〜30の大規模中核病院が、法律上の「特定社会基盤事業者」に指定されることになる。指定された病院は、電子カルテなどの基幹システム(特定重要設備)を導入・更新・外部委託する際、事前に国(主務大臣)へ計画書を届け出て、バックドアの混入やサプライチェーンリスクの安全審査を受けなければならなくなる。
点検事業(2.3億円)と補助金の巧妙な連動
概算要求に盛り込まれた「医療分野におけるサイバーセキュリティ点検事業(2.3億円)」は、まさにこの法律の施行を見据えた布石である。
特定社会基盤事業者への指定が想定される特定機能病院を対象に、国の専門チームが事前にセキュリティ点検を実施する。そして特筆すべきは、この点検事業に参画した病院に対しては、前述の「サイバーセキュリティ確保事業(129億円)」の補助上限額が増額されるというインセンティブ設計が施されていることだ。
法的な規制・義務化を単に上から押し付けるのではなく、「点検を受ければ、より多額の国費補助を受けてシステム改修ができる」という資金面での優遇措置とセットにすることで、基幹病院の主体的な参加を強力に後押ししている。
サイバー対処能力強化法との重複包囲網
さらに、2026年10月には「サイバー対処能力強化法」が施行される。 特定社会基盤事業者に指定された医療機関のうち、「特定重要電子計算機」を運用する病院には、重大インシデント発生時の迅速な国への報告義務や情報提供が課せられる。
病院の経営陣や理事長にとって、サイバーセキュリティはもはや「システム部の現場レベルの課題」ではなく、法令違反や事業停止リスクに直結する「経営責任・ガバナンス課題」へと完全に昇格したのである。
6. 残り8億円が突きつける「人の壁」と現場のリアル
外部接続点を集約し、最新のSASEやゼロトラスト製品を全額国費で導入したとしても、それだけで病院が守られるわけではない。
今回の概算要求において、金額としては全体の6%程度(約8億円)に過ぎないものの、医療現場の生々しい苦悩が色濃く反映されているのが「人材・運用」に関わる4つの事業である。
「専任担当者ゼロ」が8割を超える現実
厚生労働省が実施した医療機関向け調査(G-MIS調査)の結果は、衝撃的な実態を浮き彫りにしている。 全国の一般病院の8割以上において、「サイバーセキュリティの専任担当者が1人もいない」のである。
多くの病院では、電子カルテの操作指導やプリンターの紙詰まり対応を行う少数の総務課職員、あるいは医師や薬剤師が兼任で「システム担当」を務めているのが実情だ。ログの常時監視や脆弱性情報の収集、SIEM(セキュリティ情報イベント管理)のアラート分析などを院内のリソースで行うことは物理的に不可能である。
専門人材を「外から借りる」仕組みへの投資
この現実を踏まえ、厚労省は「医療機関におけるセキュリティ人材活用推進事業(3.4億円)」を計上した。
院内にセキュリティ専門家を正社員として雇用することは、給与水準や人材不足の観点から現実的ではない。そこで、IPA(情報処理推進機構)が整備する「サイバーセキュリティ対策支援者リスト(情報処理安全確保支援士など)」を活用し、病院が必要なときに外部の高度専門人材をスポットや顧問契約で招き入れられるマッチング基盤を構築する。
自前で抱えられないなら、シェアリングエコノミーのように「外から借りられる状態」を制度として確立しようという現実的なアプローチである。
平時アセスメントと実践演習の自走化
残る事業にも、過去の反省を活かした工夫が見られる。
- 対策調査事業(1.2億円): インシデント発生時に厚労省の専門チームを緊急派遣する初動対応支援。武蔵小杉病院の事案でも派遣実績があるが、年間数件にとどまる。令和9年度は「緊急出動がない待機時間」のコストを無駄にせず、指定病院の平時セキュリティアセスメント(健康診断)に振り替えて運用効率を高める。
- 演習実施助成(5,500万円): NICT(情報通信研究機構)の大規模サイバー演習基盤「CYNEX」を活用した実践的なシミュレーション演習を、日本医師会や日本病院会などの学術団体・職能団体が自前で開催できるよう助成(1団体年350万円上限)。「国が教えてあげる」段階から、「業界自らが教える担い手を増やす」段階へのステップアップを促している。
7. まとめ:サイバーセキュリティは「医療安全」そのものである
医療機関におけるサイバー攻撃の脅威は、クレジットカード情報や機密技術が盗まれる一般企業のインシデントとは本質的に異なる。攻撃の着弾が、そのまま「救急車の受け入れ不能」「人工透析やがん放射線治療の中断」「手術の無期限延期」という、患者の生命と身体への直接的な危機に直結するからだ。
今回の厚生労働省による令和9年度概算要求137億円は、これまで「病院任せ」「ベンダー任せ」「単発の補正予算任せ」にされてきた日本の医療セキュリティ対策を、国家インフラ防衛の責務として当初予算に位置づけ、物理的な入口集約と全額補助によって根底から作り直す決意表明である。
しかし、制度や予算が整っても、現場の運用が追いつかなければ意味をなさない。今後、全国の病院経営者や医療従事者に求められるのは、以下の3つの意識改革である:
- 「閉域網だから安心」という思考停止の完全放棄: 外部保守回線が1本でもつながっている以上、病院ネットワークはインターネットと地続きである。すべての通信を疑い、入口を集約して監視するゼロトラストへの移行を受け入れること。
- 保守ベンダーへの統制と契約の見直し: 「システムのことはベンダーに任せてあるから分からない」という姿勢を脱し、院内に入るすべての接続点・機器を台帳管理し、多要素認証の導入をベンダー側に契約上義務付けること。
- 「システム停止」を前提としたBCP(事業継続計画)訓練の徹底: 市立奈良病院の事例が示したように、機器の故障であれサイバー攻撃であれ、いつシステムが遮断されても即座に「紙カルテ運用」「手書き処方箋」「オフライン受け入れ」へ切り替えられる実践的訓練を平時から重ねること。
サイバーセキュリティへの投資は、もはや単なるITコストではない。医療機器の消毒や手術室の滅菌と同じ、患者の命を守るための「医療安全」そのものなのである。
よくある質問(FAQ)
Q1: なぜ病院がサイバー攻撃を受けると、診療や手術まで止まってしまうのですか?
現代の病院業務は、電子カルテを中心にすべての医療機器や検査システム、薬剤部門がネットワークで緊密に連動しています。電子カルテがランサムウェア等で暗号化されて閲覧できなくなると、患者のアレルギー歴、過去の処方箋、血液型、持病などの重要情報が確認できなくなります。誤った薬剤投与や手術ミスによる死亡事故を防ぐため、安全が確認されるまで外来診療や救急受け入れ、予定手術を全面的に中止せざるを得ないためです。
Q2: なぜ国が「10分の10(全額)」も費用を負担するのですか?
医療機関は公定価格である診療報酬で運営されており、一般企業のようにセキュリティコストを治療費に上乗せして回収することができません。さらに全国の病院の多くが赤字経営であるため、自己負担を求めると対策が後回しにされてしまいます。しかし、病院の機能停止は地域医療崩壊や人命喪失に直結するため、国は公共インフラ防衛の一環として全額補助という極めて強い支援措置を採用しました。
Q3: SASEを導入すると、医療機器のセキュリティはどう変わるのですか?
CTやMRIなどの医療機器は国の認証を受けているため、勝手にWindows Updateを適用したりセキュリティソフトを入れたりできません。SASEを導入すると、院外からのアクセスがクラウドゲートウェイで厳格に認証・監視されるとともに、院内ネットワークが細かくゾーン分離(セグメンテーション)されます。機器本体にパッチが当てられなくても、手前のネットワークで不正な通信を遮断し、万一の侵害時にも他のシステムへの感染拡大を防ぐことができます。
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参考ソース・参考文献
- 厚生労働省「令和9年度厚生労働省所管予算概算要求関係」政策統括官(情報政策担当)資料(2026年8月)
- 内閣官房 国家安全保障局「経済施策を一体的に講ずることによる安全保障の確保の推進に関する法律(経済安全保障推進法)」基幹インフラ制度改正(2026年6月公布)
- 日本医科大学武蔵小杉病院「不正アクセスによる情報流出に関するお詫びとご報告(第1報〜第5報)」(2026年2月)
- 市立奈良病院 システム障害検証専門家委員会「システム障害に係る検証報告書」(2026年8月31日公表)
- 厚生労働省「医療情報システムの安全管理に関するガイドライン 第6.0版」
- 九州大学病院「不正アクセスに関する調査結果報告」