「脱エンジン」を捨てた日──ホンダ上場以来初の4239億円赤字が突きつけた、日本式EV戦略の終焉とハイブリッド回帰の覚悟
はじめに──1957年から続いた「黒字神話」が、1兆5778億円の損失で終わった
2026年5月14日午後1時25分、本田技研工業(以下、ホンダ)が発表した2026年3月期の連結決算(国際会計基準=IFRS)は、日本の自動車産業史にもう一つの「初めて」を刻んだ。最終損益は4239億円の赤字。前期の8358億円黒字から実に1兆2597億円もの落差で着地し、1957年に東京証券取引所へ上場して以来、最終赤字に転落したのは初めてである。本業のもうけを示す営業損益も4143億円の赤字(前期は1兆2134億円の黒字)に転落した。
売上収益は前年同期から微増の21兆7966億円。販売台数自体は大きく崩れていない。それでも巨額の赤字を計上した最大の理由は、電気自動車(EV)戦略の見直しに伴う1兆5778億円の関連損失だ。減損損失と部品メーカーへの補償金などを合算したこの「一括処理」が、上場以来69年間守ってきた黒字記録を一夜で破壊した。
そして同日、東京・新宿の会見場で三部敏宏社長が口にした一言が、日本の自動車産業に静かな衝撃を走らせた。
「2040年までの脱ガソリン車目標は、現実的ではない。いったん取り下げたい」。
2021年、社長就任と同時に世界に向けて宣言した「2040年までに新車を全てEVと燃料電池車(FCV)にする」という旗印。総額10兆円を投じる計画として大々的に喧伝された「脱エンジン」が、わずか5年で正式に撤回された瞬間である。本稿では、この決算と戦略転換が何を意味するのかを、(1)4239億円赤字の内訳、(2)2021年「脱エンジン宣言」からの軌跡、(3)ハイブリッド軸への回帰策、(4)トヨタ・日産との明暗、(5)株主・サプライヤー・読者への影響──の5層で読み解く。
第1章 数字の解剖──「営業赤字4143億円」の正体
ホンダが発表した2026年3月期の連結業績は、表面の「赤字転落」よりも内訳のほうが雄弁である。
売上収益は21兆7966億円。前期から1078億円の増収であり、トップラインだけ見れば「ほぼ前期並みの売上を確保できた」優等生の数字だ。実際、EV関連損失を控除した「調整後営業利益」は1兆393億円の黒字で着地している。これは前期の1兆2134億円から約14%の減少にとどまり、本業の実力値はまだ十分に残っていることを示している。
問題は、その実力値を覆い隠した1兆5778億円のEV関連特別損失である。この内訳には、開発中止を決めた大型EV3車種にかかる仕掛品の減損、北米向けに進めていたカナダEV工場プロジェクトの凍結に伴う設備計上損、そしてEV用バッテリーや専用部品を供給するために部品メーカーに約束していた将来発注分の「補償金」が含まれる。EVを前提とした巨大なサプライチェーンを一度組み上げてしまった以上、戦略の旗を下ろすには、契約破棄に伴うペナルティを真正面から負担せざるを得ない。
会社側の従来予想は5550億円の最終赤字(中央値)だった。今回の4239億円赤字は予想より上振れて着地したが、それは赤字額が小さいから喜ばしいのではなく、「想定していた損失額を一括計上することで、来期以降に膿を残さない」という経営判断が貫かれていることを示す。実際、ホンダは同日、2027年3月期の業績見通しとして営業利益5000億円、最終利益3000億円の「黒字浮上」を提示した。証券アナリストの一部は「ビッグバス(大規模な減損を一回でやる)会計の典型例」と評している。
第2章 三部敏宏社長と「脱エンジン宣言」の5年──なぜここまで踏み込んだのか
2021年4月。三部敏宏氏が本田技研工業の代表執行役社長に就任した直後の記者会見で、世界の自動車業界が耳を疑う宣言が飛び出した。「2040年までに、グローバルで販売する新車を100%、EV/FCVにする」。
当時、トヨタ自動車は「マルチパスウェイ」(複数の電動化技術を並行で持つ)を掲げ、日産自動車は「2030年までに主要市場で電動車を完全展開」と段階的な目標にとどめていた。日本の自動車メーカーのなかで、「いつまでに完全脱エンジン」と最も急進的に踏み込んだのがホンダだったのである。
背景には三つの計算があった。第一に、欧州・カリフォルニア州などで2035年以降のエンジン車新車販売禁止の動きが本格化し、規制対応を後追いではなく先取りで進めれば「環境先進企業」のブランドを獲得できると見立てた。第二に、当時のバイデン米政権がインフレ抑制法(IRA)でEV購入補助・国産バッテリー補助を大幅拡充し、北米EV市場の急成長シナリオが半ば既定路線とみなされていた。第三に、ホンダ自身が四輪事業の利益率の低さに長年悩まされており、「ICE(内燃機関)車だけでは中国・新興メーカーに価格で勝てない」という危機感を共有していた。
その結論として、三部社長は2030年までに10兆円規模を電動化とソフトウェア領域に投資する計画を打ち出した。米GMと共同開発する大型EV「プロローグ」と「アキュラZDX」、自社開発の次世代EV専用プラットフォーム「Honda 0(ゼロ)シリーズ」、そしてカナダ・オンタリオ州での新EV工場とバッテリー一貫生産拠点の建設──。「資源は全部、EVに張る」という、日本企業としては異例の集中投資が始まった。
しかし、その前提が崩れ始めるのに5年もかからなかった。
第3章 何が崩れたのか──「北米EV需要失速」「トランプ関税」「中国の地殻変動」三重苦
ホンダの戦略を直撃した変化は、大きく三つの軸に整理できる。
(1) 北米EV市場の急ブレーキ
ホンダにとって北米は四輪事業の最大の利益プール。世界販売の約4割を北米が占め、営業利益への寄与度はさらに大きい。その北米で、EVの需要曲線が「Sカーブを描いて急上昇」する代わりに、2024年後半から「踊り場」に張り付いた。日本経済新聞や朝日新聞各紙の取材によれば、ホンダはGM共同開発EV「プロローグ」の販売目標未達、リース返却車の中古価格暴落、ディーラーへの値引き原資負担などで、北米EVだけで数千億円規模の損失を計上したとされる。
(2) トランプ第2次政権のEV政策大転換
2025年1月に発足したトランプ第2次政権は、就任直後にIRAのEV購入補助を段階的に廃止し、燃費規制を大幅に緩和、さらに2026年に入ると排ガス規制そのものの撤廃にまで踏み込んだ。さらに加わったのが、メキシコ・カナダ製自動車に対する追加関税である。同政権下では、過去14日のあいだだけでも「相互関税」を違憲とした連邦最高裁判決、10%代替関税を違法とした国際貿易裁判所判決と、関税政策は揺れに揺れているが、いずれの局面でも「米国外で組み立てた車には何らかの追加コストがかかる」ことだけは一貫している。北米生産ネットワークが「米国・カナダ・メキシコ」三国一体で組まれているホンダは、その不確実性のど真ん中にいる。
(3) 中国市場の地殻変動
もう一つの巨大市場、中国。ここではBYDや小米(Xiaomi)など現地系がEV/プラグインハイブリッド(PHEV)で圧倒的な競争力を持ち、ホンダの現地販売は失速が止まらない。三部社長は14日の会見で「中国やインドが今後の競争力の基準になる」と語り、車両開発の進め方を中国・インド標準に合わせて抜本的に改める方針を示した。これは、日本本社主導の「グローバルカー」発想を半ば手放す表明でもある。
これら三重苦のうえに、為替(1ドル=157円台後半まで進んだ円安)と原油価格高騰(中東情勢を映した上振れ)が乗ったのが、いまの自動車産業の景色である。
第4章 戦略転換の中身──「Honda 0」を脇に、HV15モデルを軸に
14日の事業戦略説明会で示された「Honda 2026 Business Update」の中身は、明確な「ハイブリッド回帰」を示している。
第一に、キャピタル・アロケーション(資源配分)の組み替え。2027〜2029年3月期の3年間で投入する事業資源は合計約6.2兆円。そのうちEV関連投資は0.8兆円規模に圧縮され、代わりにICE/ハイブリッド車に4.4兆円、ソフトウェア・SDV領域に1兆円を振り向ける。「EVは時期が来たら魅力的な商品を出せるよう仕込み続ける」(三部社長)が、当面の収益と投資のエンジンはHVに置き換える。
第二に、製品ロードマップの再設計。2029年度までに次世代ハイブリッド車を15モデル投入し、北米市場ではアコード/シビック/CR-V/パイロットといった主力モデルをHV中心のラインアップに転換する。EV側では、軽EV「N-VAN e:」や小型EV「Super-ONE」、二輪電動モデルなど「相対的に投資負担が小さい領域」に絞り、自前主義にこだわらず外部リソースも積極活用する方針が打ち出された。
第三に、目標値の現実化。2030年EV販売比率目標は従来30%→新計画では20%に下方修正。2040年の「全車EV/FCV化」目標は正式に撤回された。新たな利益目標として、2029年3月期の営業利益1兆4000億円以上を掲げ、二輪事業の強いキャッシュ創出力と四輪事業の黒字定着で、3年間のR&D調整後キャッシュフロー7兆円以上を見込む。
第四に、ガバナンス面。三部社長は続投が決まり、新任の四竈真人氏が取締役に加わるなど執行体制を一部入れ替えた。米マッキンゼーを含む外部コンサルを再建支援に起用しているとの観測報道もあり、文春オンラインなど一部メディアは「日産より先行きが厳しい」と踏み込んだ評価を載せている。社内には三部社長続投への不満の声もあると複数の媒体が伝えており、ガバナンス面のリスクは決算と表裏一体で残る。
第5章 トヨタ・日産との明暗──「マルチパスウェイ」が再評価された日
同じ「日本車3強」のなかで、ホンダの苦境は、トヨタ自動車の堅調と日産自動車の自助再生と並べると一段とくっきりする。
トヨタは2026年3月期も営業利益で4兆円超を維持し、HV/PHEV/EV/FCVを横並びで持つマルチパスウェイ戦略の優位性が市場から再評価されている。日産自動車はカルロス・ゴーン時代以降の構造改革を経て、エスピノーサCEO体制下で固定費圧縮と新型車投入の同時進行を進め、決算は依然苦しいながらも将来戦略の輪郭が見えてきた。ホンダは日産との経営統合協議を2025年に撤回した経緯もあり、「単独で再建する」という重い宿題を自ら選び直した格好だ。
ダイヤモンド・オンラインの解説記事は、ホンダの致命的弱点を「2.5兆円のEV損失と、四輪事業の利益率の構造的低さ」と整理し、「1999年のインサイト発表時に切り拓いたHV技術の蓄積こそが、最後の挽回策になり得る」と指摘する。HVを軸に置いた新計画は、まさにこの蓄積を再評価した結果であり、ホンダにとっては「未来の話」ではなく「過去の延長線上にあった選択肢」をようやく拾い直したと言える。
第6章 私たちへの影響──株主・サプライヤー・利用者の視点
最後に、この決算が私たちにどう跳ね返るかを整理しておきたい。
第一に、株主にとって。配当は前期比でほぼ据え置きの方針が示されたものの、自己株式取得は2026年度上期分を一旦見送るなど、株主還元のテンポは鈍化する。ただし2027年3月期の黒字復帰見通しと、2029年3月期の営業利益1兆4000億円目標を額面通り受け取れば、中長期ではPBR1倍割れの水準から修正余地が残る。日米金利差と為替の振れに敏感な銘柄であることは変わらず、長期金利2.58%という「29年ぶりの臨界点」と組み合わせて読む必要がある。
第二に、サプライヤーにとって。EV専用部品の発注減と補償金の精算は、Tier1・Tier2の中堅メーカーに二次的なリストラ圧力を波及させる。一方で、HV用モーター・電池・パワーコントロールユニット、そしてICE向け排ガス処理部品の需要は再び底堅さを取り戻す。「EVは長期、HVは中期、ICEは短期」というポートフォリオの組み替えが、サプライチェーン全体に同心円的に広がる。
第三に、利用者にとって。短期的にはホンダのEV新車投入ペースが鈍化する一方、HV・ICEモデルの選択肢は厚みを増す。アコードやCR-Vの次世代HVが、欧州・北米・日本市場で相次いで投入される見通しで、「燃費30km/L級セダンが現実価格で買える」時代が再び戻ってくる。ホンダコリアが2026年末で韓国の四輪販売から撤退する一方、中国・インドでは現地基準に合わせた新型車が投入される。ユーザーが感じる「ホンダの顔」は、地域ごとに大きく違うものになっていく。
まとめ──「脱エンジン」を旗から下ろした日が、ホンダ第二創業の起点になるか
ホンダの2026年3月期決算は、単に「赤字に転落した」というニュースではない。1957年の上場から69年間、戦後日本の自動車産業を支えてきた優等生企業が、「過去5年間に張った戦略を自ら否定する」という重い決断を、決算と同時に世の中に開示した日である。
EVが要らなくなったわけではない。北米EV需要の減速、トランプ政権下の政策反転、中国メーカーの台頭、為替・原油の振れ──いくつもの不確実性が同時に襲ったとき、「全てを一つの技術に賭ける」戦略がいかに脆いかを、ホンダの1兆5778億円という数字は示している。三部社長が「中国・インドが基準になる」と述べたように、自動車産業のルールメーカーは確実に変わりつつあり、その変化に追随するためのキャッシュと時間を、ホンダはハイブリッド回帰によって買い戻そうとしている。
問われているのは、これが「敗北宣言」なのか「第二創業の起点」なのか、である。1999年のインサイトでHV市場を切り拓いた技術の血脈、二輪事業の世界トップシェアという稼ぐ柱、そしてアキュラブランドを含む北米のリテール網──ホンダがまだ持っている資産は決して少なくない。読者の私たちがこの先見守るべきは、「2027年3月期の黒字浮上が予定通り実現するか」「2029年3月期の営業利益1.4兆円計画が修正されずに走り切るか」、そして何より「次の三部社長」のもとで、再び大きな絵を描き直す勇気があるかどうかだ。
「脱エンジン」を旗から下ろした2026年5月14日は、日本の自動車産業にとって、戦略の作り直しが始まる長い10年の幕開けになる──。
参考ソース
- 日本経済新聞「決算:ホンダが上場来初の最終赤字4239億円 26年3月期、EV損失重く」(2026/05/14)
- 日本経済新聞「ホンダ戦略修正『中国・インドが世界の基準に』三部社長の一問一答」(2026/05/14)
- 日本経済新聞「ホンダがEV戦略抜本修正、米中+インドで再構築 14日に説明会」(2026/05/14)
- 朝日新聞「ホンダ、『脱エンジン』取り下げ 26年3月期は上場後初の赤字」(2026/05/14)
- 朝日新聞「ホンダが対応できなかった『変化』 社長の反省、立て直しの道筋は」(2026/05/14)
- 読売新聞「ホンダ最終赤字4239億円、連結決算では上場以来初…米市場でのEV鈍化など響く」(2026/05/14)
- 毎日新聞「ホンダ、最終損益4239億円の赤字 上場以来初の最終赤字転落」(2026/05/14)
- 共同通信/時事通信「ホンダ社長、脱ガソリン車目標を取り下げ」「ホンダ、上場来初の赤字4239億円 EV損失1兆5778億円」(2026/05/14)
- Car Watch「ホンダ、2026年3月期通期決算 売上収益は0.5%減の21兆7966億円だが、EV関連損失の1兆4536億円が影響して営業利益は4143億円の赤字に」(2026/05/14)
- Response.jp「ホンダの2026年3月期決算、営業損失が4143億円 EV関連損失除く調整後は1兆393億円黒字」(2026/05/14)
- Bloomberg「ホンダ三部社長、『脱エンジン車』目標撤回-市場減速、巨額減損」(2026/05/14)
- テレビ朝日「ホンダ 上場以来初の赤字転落 EV戦略見直しで 三部社長『重く受け止める』」(2026/05/14)
- FNNプライムオンライン「ホンダ最終赤字4239億円 上場以来初、EV投資見直しが影響 2029年3月期に営業利益1兆4000億円以上目指す」(2026/05/14)
- 日刊自動車新聞「ホンダ、電動化戦略を見直し EV目標は撤回 2029年度までに次世代HV15モデル投入」(2026/05/14)
- ホンダ企業情報「2026 ビジネスアップデート 説明概要」(2026/05/14)
- ダイヤモンド・オンライン「トヨタと明暗くっきり…中国の台頭、EVシフト失敗で巨額赤字転落のホンダに残された『挽回策』とは」
- 文春オンライン「《ホンダ損失1.3兆円》『日産よりもお先真っ暗』三部敏宏社長の〈脱エンジン〉がもたらした"焼野原" 再建をマッキンゼーに委ねたが…」
- マネーポストWEB「《業績急降下のホンダの苦境》EV戦略の加速が仇になり巨額損失、"三部社長の続投"に社内で渦巻く不満」