「W状態」の壁を破った京大・竹内研──四半世紀の難問を解いた量子もつれ測定が拓く量子インターネット時代
はじめに──四半世紀越しのブレイクスルーが、量子インターネットの「最後のピース」になる
2026年5月13日、京都大学と広島大学の共同研究グループは、量子もつれの中でも特に扱いが難しいとされてきた「W状態」を、一度の測定で識別できる新手法を世界で初めて実証したと発表した。論文責任著者は京都大学大学院工学研究科の竹内繁樹教授。三つの光子が織りなす量子もつれを、外部からの能動制御を必要としない安定した光集積回路で読み取った成果である。
地味な実験報告に見えるこの一件は、しかし量子コンピュータと量子通信の歴史に長く刻まれることになる。1999年頃に「GHZ状態」の集団測定が提案・実証されて以来、もう一つの代表的な三光子もつれである「W状態」の集団測定は、ちょうど四半世紀にわたり「次の宿題」として残されたままだったからだ。竹内教授自身、リリースで「GHZ状態に関する最初の提案から25年以上を経て、ようやくW状態の測定にも到達できた」と語っている。
タイミングも象徴的だ。4月23日には米シスコ・システムズが、室温下でフォトンの量子情報を保ったまま既存の通信用光ファイバ網で経路選択できる「Cisco Universal Quantum Switch」を発表。直後にはニューヨーク市内で稼働中の商用ファイバを利用した三拠点間の量子ネットワーク試験が成功している。研究室の中だけで完結していた量子もつれが、いま街の地下を走る通信網へと染み出し始めている。日本発の今回の成果は、この潮流に「精密な計測」という最後のピースをはめ込むものだ。
背景──そもそも「W状態」とは何で、なぜ難しかったのか
量子もつれは、二つ以上の量子(典型的には光子)が、個別の状態として記述できないほど深く絡み合った状態を指す。アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と評したこの現象は、いまや量子コンピュータ・量子通信・量子テレポーテーション・量子ネットワークなど、未来技術の中核を成す資源となった。
問題は、もつれ状態を「作る」だけでは技術として使えない点にある。状態を作った後、それが本当に望ましい状態なのか、どのタイプのもつれが生じているのかを高速かつ正確に識別する必要がある。標準的な手法である量子トモグラフィは、光子数が増えるにつれ必要な測定回数が指数関数的に膨張する致命的なボトルネックを抱える。
これを一発で見抜く魔法のような手段が「エンタングルメント測定」と呼ばれる集団測定だ。三光子のGHZ状態については1990年代後半から提案と実験が積み重ねられてきた。一方、もう一つの代表的な三光子もつれであるW状態は、巡回的な対称性を持ちGHZ状態よりロバストである一方、その対称性ゆえに測定基底の設計が困難で、四半世紀にわたり「集団測定の提案すら存在しない」状態が続いていた。今回の研究は、まさにこの「提案も実証もない」空白を一気に埋めた。
詳細①──京都大学が示した解法:W状態のフーリエ変換
竹内教授らのアプローチは、W状態が持つ「巡回シフト対称性」に光を当てるものだった。任意の光子数のW状態に対して量子フーリエ変換を施す光量子回路を理論的に提案し、これを三光子の場合に実装。隠れていたW状態の構造を、シングルショットで測定可能な明確な信号へと写像することに成功した。
装置は単一光子をある決まった偏光状態で三本投入する単純な構成だが、内部はサブミクロン精度で位相を保つ高安定光集積回路でできている。能動制御無しで長時間動作するため、実験室の繊細なセットアップに依存しない、将来のシステム実装に直結する性質を備えている点が画期的だ。研究グループは異なる種類の三光子W状態を正しく弁別し、純粋なW状態を入力した際にどの程度正しい結果が得られるかを示すフィデリティ評価も行っている。
竹内研究室は、2026年4月に「量子もつれを用いた光量子センシング」に対し令和8年度科学技術分野の文部科学大臣表彰(科学技術賞・研究部門)を受賞したばかりであり、世界の量子センシング研究の先端を走るチームだ。今回の成果は、その延長線上で生まれた基礎物理学的なブレイクスルーである。
詳細②──シスコ「ユニバーサル量子スイッチ」と稼働中の量子ネットワーク
W状態測定の意義を理解するには、世界の量子ネットワーク開発がここ数か月で見せた急加速ぶりを押さえておく必要がある。
2026年4月23日、シスコ・システムズは「Cisco Universal Quantum Switch」の研究プロトタイプを発表した。これは異なる方式で実装された量子コンピュータ同士を、既存の通信用ファイバを通じて室温下で接続するための装置だ。同社のクオンタムラボでは「1000量子ビット級のマシン100台を量子ネットワークで束ねれば、10万量子ビット級の計算機が出来上がる」というスケーリング戦略をすでに公にしている。
並行して、ニューヨーク市の地下に張り巡らされた商用テレコム・ファイバを使った三拠点間の量子ネットワーク試験も実施され、エンタングルメント・スワッピングと呼ばれる手法で光子のもつれを中継ノードで繋ぎ替える実験が成功した。これら一連の動きは、量子もつれを「実験室の中で生成する研究対象」から「街の通信網で運ぶ社会インフラ」へと格上げする転換点となっている。
ネットワーク上を流れる量子情報は、フラジャイル(壊れやすい)である。そのため、ノードに到着したもつれ状態が本当に意図したものか、改竄や減衰が起きていないかを「一度の測定で」判別できる手法は、ネットワーク運用の信頼性そのものを左右する。W状態の集団測定はGHZ状態と並ぶ、その基盤要素なのだ。
詳細③──日本の量子戦略:256量子ビットREIMEIから1000量子ビットへ、そして日印協力
日本の量子コンピュータ開発の現在地も押さえておきたい。理化学研究所と富士通は2025年4月、世界最大級となる256量子ビット超伝導量子コンピュータ「REIMEI」を稼働開始し、外部ユーザーへのクラウド提供を開始済みだ。さらに2026年度内には1000量子ビット機を富士通川崎テクノロジーパーク内の新量子棟で稼働させる計画が公表されている。2030年度には1万物理量子ビット級の超伝導マシン構築を目指し、誤り耐性量子コンピュータ(FTQC)の入り口に立つことを国家目標としている。
加えて、2026年5月4日には小野田紀美経済安全保障担当相が訪印し、ジテンドラ・シン科学技術相と量子分野の専門家・実務家交流促進の文書を交わしたことが日本経済新聞によって報じられた。インドは2023年に承認したNational Quantum Missionを通じて2030-31年度まで約1200億円規模を投じ、4月14日のWorld Quantum Dayにはアンドラ・プラデーシュ州で初のオープンアクセス量子コンピュータ「Amaravati 1S/1Q」を公開している。日印の補完関係──日本のハードウェア・実装力と、インドの人材・アルゴリズム研究のリソース──が、米中の物量に挑む第三勢力の核となる構図だ。
ここに今回の京大・竹内研の成果が重なる意味は大きい。量子ネットワークの「測定」を担う基盤技術を日本が持つということは、ハードウェア(REIMEI)・ソフトウェア(人材育成と共同研究)・計測(W状態の集団測定)の三層を国内で揃えうる可能性を示すからだ。
影響と今後──Q-Dayへのカウントダウンと、暗号社会の地殻変動
量子ネットワークが現実の社会インフラに食い込み始めることは、希望と脅威を同時に意味する。希望は、量子テレポーテーションや測定型量子計算、極限まで盗聴耐性を高めた量子鍵配送(QKD)などの応用が一気に開花することだ。一方の脅威は、十分な規模の量子コンピュータが完成した瞬間、現在のRSAやECCといった公開鍵暗号がすべて破られる「Q-Day」が訪れることである。
内閣官房国家サイバー統括室は2025年11月、政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)への移行について中間とりまとめを公表し、政府システムの移行期限を原則2035年と定めた。米連邦機関にもPQCへの移行計画策定が義務づけられており、2026年4月には移行計画提出期限が設定されていた。今この瞬間に暗号化された通信も、攻撃者によって保存され続けるならばQ-Day以降に遡って復号されうる──いわゆる「Harvest Now, Decrypt Later」攻撃──ため、PQC移行は10年後の話ではなく、いまの設計判断の話である。
逆に言えば、量子もつれ測定の精緻化が進めば進むほど、量子通信網そのものがQ-Day後の「盗聴不可能な代替インフラ」として現実味を帯びる。攻撃と防御の双方が、京都の実験室で行われたような基礎的測定技術の積み重ねの上に立っている。
社会的インパクトはさらに広い。創薬・新素材開発・気象予測・金融最適化など、現在のスーパーコンピュータでも届かない計算領域が、ネットワーク化された量子計算機で開かれる。日本企業にとっては、半導体・自動車・電機の次の柱として量子産業を育てるラストチャンスでもある。
まとめ──小さな測定が、大きな未来の地図を描き直す
竹内教授は受賞コメントで「量子技術の研究開発を加速するには、基礎概念への理解を深め、革新的なアイデアを生み出すことが不可欠だ」と述べている。光子三つを巧妙な光集積回路に通すだけの今回の実験は、一見すれば地味で抽象的だ。しかし1990年代に提案されたGHZ測定が、いまや量子テレポーテーションや量子ネットワークの基盤となったのと同じように、W状態の集団測定もまた、これから建ち上がる量子インターネットの足場となる。
シスコの量子スイッチ、ニューヨークの量子ネットワーク試験、富士通・理研の1000量子ビット計画、日印量子協力、PQC移行の2035年期限──これら別個に見えるニュースを束ねる結節点は「もつれを正確に運び、正確に読む」という地味な能力に収斂する。京都発のブレイクスルーは、その結節点に日本の名前を刻んだ。次の四半世紀、量子情報を運ぶ新しい通信網が広がっていく時、その上を流れる光子たちは、2026年5月13日に京都で読まれた「W」の名残を確かに帯びている。
参考ソース
- ScienceDaily「Quantum breakthrough could revolutionize teleportation and computing」(Source: Kyoto University, 2026-05-13) https://www.sciencedaily.com/releases/2026/05/260513034640.htm
- Optronics「京大・竹内繁樹氏が文科大臣表彰を受賞、量子もつれ光による光量子センシングで評価」(2026-04-17) https://optronics-media.com/news/20260417/109009/
- Cisco Investor Relations「Cisco Introduces Universal Quantum Switch, Advancing the Path to a Quantum Network」(2026-04-23) https://investor.cisco.com/news/news-details/2026/Cisco-Introduces-Universal-Quantum-Switch-Advancing-the-Path-to-a-Quantum-Network/default.aspx
- The Quantum Insider「Cisco Advances Quantum Networking with New Universal Quantum Switch」(2026-04-23) https://thequantuminsider.com/2026/04/23/cisco-universal-quantum-switch-quantum-network/
- LiveScience「Live 'quantum network' being tested in New York」(2026-05) https://www.livescience.com/technology/quantum/live-quantum-network-test-in-new-york-overcomes-2-key-hurdles-in-creating-an-unhackable-internet
- 富士通「Fujitsu Quantum」 https://global.fujitsu/ja-jp/technology/research/quantum
- 日本経済新聞「日本、インドと量子で協力へ 次世代の国産コンピューター活用」(2026-05-04) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA012100R00C26A5000000/
- note 宮野宏樹「日印が量子で組む2026年:1000量子ビットへ走る国産機と、インド頭脳の融合戦略」(2026-05-04) https://note.com/hirokimiyano/n/nbc7c5d731fc8
- bittimes「量子コンピュータが仮想通貨・ビットコインを襲う日|Q-day対策の最前線」(2026-05-07) https://bittimes.net/feature/220632.html
- Zenn「耐量子暗号の現在(2026年4月)」 https://zenn.dev/ebisawa/articles/62cd4840ae97b7