「帰宅困難者840万人」の現実――12年ぶり首都直下地震被害想定が突きつけた、災害関連死4万1000人という新しい恐怖
はじめに――12年で塗り替えられた「最悪の風景」
2025年12月19日、政府の中央防災会議は、首都直下地震の新たな被害想定を12年ぶりに公表した。都心南部直下を震源とするマグニチュード(M)7クラスの地震が、最も悪い条件で発生したと仮定したシナリオである。広範囲で震度6強、東京の一部では震度7。最悪の場合、東京・埼玉・千葉・神奈川の4都県を中心に約1万8000人が死亡し、建物全壊・焼失は約40万棟、避難者は最大約480万人、そして自宅へ徒歩で帰れない「帰宅困難者」は茨城を含む5都県で約840万人――。経済被害・影響額は約83兆円にのぼる。
数字の大きさだけを取り出せば、前回(2013年)の「死者2万3000人」より低く見える。しかし新想定の本当の衝撃は別の場所にある。災害関連死が初めて本格推計され、最大4万1000人にのぼると示されたこと。そしてSNS・AI生成画像によるデマ拡散が、初めて「混乱を増幅させる脅威」として明記されたことだ。
本稿では、12年ぶりに更新されたこの「国難級」想定が何を意味するのか、誰の生活に何の影響が及ぶのかを、背景・主要数字・帰宅困難者問題・企業対応・新しいリスク要因の5つの視点から多角的に整理する。
背景――なぜ12年も「想定」は更新されなかったのか
首都直下地震とは、首都圏の直下で起きるM7クラスの地震の総称であり、内閣府の中央防災会議は「最も影響が大きいシナリオ」として都心南部直下地震を選び、被害を試算してきた。前回の本格的な被害想定は2013年12月。その後12年、社会も都市も劇的に変わったにもかかわらず、想定は据え置かれてきた。
更新を主導したワーキンググループの委員を務めた東京大学先端科学技術研究センターの廣井悠教授は、「この12年で高齢者・単身世帯・外国人居住者・共働き世帯がいずれも増加し、デジタル化の進展で電力依存はかつてない水準に達した。高層住宅が増え、SNSが浸透し、AIによる虚偽画像のリスクまで生まれた。前提が変われば、想定も変えなければ意味がない」と指摘する。
南関東でM7級の地震が今後30年以内に発生する確率は、依然として「約70%」と高い水準にある。「いつか起きる」ではなく「明日起きてもおかしくない」――そうした切迫感が、ようやく数字の更新へ結びついた。
数字を読む――「死者は減ったが、苦しみは増えた」
直接死は減少、関連死が新たな主役に
新想定の死者数約1万8000人は、前回の2万3000人から約2割減った。耐震化率の向上、感震ブレーカーや火災対策の普及、津波被害が直接想定されない首都直下の地理的特徴などが反映された結果である。
しかし、減少分を打ち消すように現れたのが「災害関連死」最大約4万1000人という数字だ。直接の揺れや火災で命を失わなくても、避難所での衛生環境の悪化、寒さや暑さ、持病の悪化、低栄養、エコノミークラス症候群、孤立化による精神的負荷――こうした要因で「あとから亡くなる」人が、4万人規模で発生し得るという推計である。
東日本大震災や熊本地震、能登半島地震の教訓が、ようやく首都直下の想定にも反映されたかたちだ。命を救うフェーズが「発災直後の72時間」から「その後の数週間〜数カ月」へと拡張されたことは、防災行政・医療・自治体運営の発想を根本から変える。
経済被害83兆円――「日本の国家予算1年分」級の打撃
経済的な被害・影響額は約83兆円。内訳は、家屋やインフラ等の直接被害が約45兆円、生産減少や物流停滞などの間接的影響が約38兆円にのぼる。これは日本の一般会計予算(約110兆円)に匹敵し、首都中枢機能が麻痺した場合の国際的な金融・物流の影響まで考えれば、実質的な打撃はさらに膨らむ可能性がある。
帰宅困難者840万人――「動けば動くほど死ぬ」現実
新想定で最も社会的に注目を集めているのが、帰宅困難者840万人という数字である。茨城県を含む5都県で、地震発生当日に「徒歩でも自宅に帰れない」と判定される人々の数だ。
なぜ「帰らない」が正解なのか
東日本大震災当日、首都圏では電車が止まり、推計515万人の帰宅困難者が発生した。歩道は人で埋め尽くされ、橋やトンネル付近では群衆雪崩のリスクが現実化した。今回の被害想定はM7級の直下型であり、火災・建物倒壊・余震が都市部で同時多発する。「歩いて帰る」ことそのものが命を危険にさらす――これが新しい防災の常識になった。
内閣府は2015年以降、企業・学校・施設に対し「発災後72時間は従業員等を施設内にとどまらせる」「3日分の備蓄を確保する」よう繰り返し求めてきた。新想定は、この「とどまる原則」をいっそう強化する材料となる。
自治体・民間が動き出した「街頭ビジョン連携」
自治体側でも対策が前進している。複数の区が街頭ビジョンを保有する民間企業6社と災害時情報発信の協定を結び、発災時に駅や繁華街の大型ディスプレイで一時滞在施設の場所や交通情報を一斉表示する仕組みづくりが進む。総務省も、首都圏1都3県へ全国36道府県・13政令市が職員を派遣する応援プランをまとめた。「想定だけ更新して終わり」にしないための制度整備が、ようやく形になりはじめた。
企業の現場――200億円・三日分備蓄・健康経営との接続
民間の動きも加速している。三井不動産は既存ビルの設備強靱化に200億円規模を投じると公表し、非常用発電容量の拡大、エレベーターの長期停止対策、上下水道復旧までの自立運用などに取り組んでいる。
中堅企業の現場では「本社移転を機にBCP(事業継続計画)を見直す」「初動・帰宅困難者対応・事業継続の3シナリオで模擬演習を行う」といった事例が増えた。2026年に入ってからは、BCPと「健康経営」を一体運用する流れも生まれている。災害関連死4万1000人という新数字が、避難生活の健康リスクを企業の人事・労務マターに引き上げた格好だ。
備蓄の基本は、内閣府ガイドラインに沿った「従業員一人につき水・食料・簡易トイレを3日分」。加えて、共働き世帯の増加を踏まえた「家族同士の安否確認手段の事前合意」「子の登下校中被災時のルール」「在宅勤務中の被災想定」などが、新しい論点として浮上している。
新しい敵――AI生成デマと「電力依存社会」
新被害想定が初めて踏み込んだのが、SNS上のデマ拡散とAI生成の虚偽被害写真である。能登半島地震の際にも、生成AIで作られたとみられる虚偽画像が出回り、救助要請の優先順位を誤らせた事例があった。首都圏でM7級が起きれば、この問題は桁違いの規模で表面化する。
総務省や警察庁は、生成AIによる虚偽画像の検出・打ち消し情報の早期発信について検討を進めているが、現時点では「公式発信を信じる」「未確認情報は拡散しない」という個人の行動規範に頼らざるを得ない。
加えて、電力・通信への依存拡大も新たなリスクだ。新想定は「電力・通信は概ね1週間で復旧」と見込むが、高層ビルでの通信障害、エレベーター長期停止、データセンター依存サービスの停止は不可避とされる。キャッシュレス決済、ネットバンキング、リモートワーク、IoT家電――12年前とは比較にならないほど、生活と仕事は電力と通信に依存している。
影響と今後――「想定を超える備え」へ
新被害想定は、行政・企業・個人に対して以下のような転換を迫っている。
第一に、行政には「直接死を減らす対策」から「災害関連死を減らす対策」への重心移動が求められる。避難所環境の質的改善、福祉避難所の拡充、医療の継続供給、メンタルヘルス支援――いずれも従来の防災基本計画では十分扱われてこなかった領域だ。
第二に、企業には「従業員を帰さない覚悟」と「3日分以上の備蓄」、そして災害関連死を防ぐための健康・衛生・心理ケア込みのBCPが求められる。サプライチェーンの脆弱点、データセンターやクラウドの代替性確保も不可欠になる。
第三に、個人には、自宅・職場・通学路・帰宅経路ごとのリスク把握と、家族間の安否確認・合流ルールの事前合意、最低3日分の備蓄、そして「災害時に正しい情報を選び取るリテラシー」が求められる。とりわけ、生成AIによる虚偽画像が混じる時代には、情報源の確認が文字どおり命を分ける。
政府は新想定を踏まえた「防災対策推進基本計画」の見直しに着手しており、2026年度中には新たな数値目標と対策メニューが示される見通しだ。耐震化率、感震ブレーカー普及率、一時滞在施設収容力、災害時医療体制、帰宅困難者対策の実効性――どれだけ具体的な数字に落とし込めるかが、次の12年を決める。
まとめ――「最悪の数字」を、最悪のシナリオにしないために
12年ぶりに更新された首都直下地震の新被害想定は、死者数こそ前回より減ったものの、災害関連死4万1000人、帰宅困難者840万人、経済被害83兆円という、いずれも社会の根幹を揺さぶる数字を突きつけた。AI生成のデマ、電力依存、共働き・単身世帯の増加――12年で確実に変わった社会構造が、リスクの形を変えた。
「30年以内に70%」の確率は、見方を変えれば「明日起きるかもしれない」と同義である。新想定が示した数字は予言ではなく、減らすことを前提に提示された目標値だ。減らせるのは、行政の制度設計と、企業のBCP、そして一人ひとりの日々の備えしかない。
「動かない」「とどまる」「3日分」「家族と決めておく」「公式情報を確認する」――地味で、しかし確実に効く五つの行動が、840万人と4万1000人という巨大な数字を、少しでも小さなものに置き換える唯一の手段である。
参考ソース
- 時事通信「【詳細】地図で見る首都直下地震の被害想定(2025年版)」 https://www.jiji.com/jc/tokushu?id=shuto_chokka_earthquake_risk_2025
- 時事通信「首都直下地震、死者1.8万人=経済被害は83兆円―新想定」 https://sp.m.jiji.com/article/show/3676201
- 廣井悠(東京大学)「首都直下地震・新被害想定をどう読むか」 https://www.seishop.jp/blog/tokyo-inland-earthquake-damage-estimates/
- NHK「明日をまもるナビ #189 新生活スタート 首都直下地震 自宅に帰れない!その時どうする」 https://www.web.nhk/tv/an/ashitanavi/pl/series-tep-698KRW7VJW/ep/QYXJQLWVJZ
- TBS NEWS DIG「死者1万8000人・経済被害は83兆円と推計か 首都直下地震の新たな被害想定」 https://newsdig.tbs.co.jp/articles/gallery/2332325
- 防災情報新聞「首都直下地震東京圏へ36道府県が即時応援派遣」 https://www.bosaijoho.net/2026/04/06/
- 三井住友海上経営サポートセンター「首都直下地震の被害想定が更新されました」 https://www.mcic.co.jp/corporations/useful/column4.html
- agriture「企業防災とは?2026年版|BCP×健康経営で進める実践ガイド」 https://agriture.jp/sustainable/corporate-disaster-prevention/