2025年度実質賃金4年連続マイナス──物価上昇に賃上げが追いつかない日本の現実


はじめに──4年連続マイナスという重い現実

2026年5月22日、厚生労働省が発表した2025年度の毎月勤労統計調査(確報)は、日本の労働者にとって決して楽観視できない数字を突きつけた。物価変動の影響を除いた「実質賃金」が前年度比0.5%減。これでマイナスは4年連続となった。

一見すると、ニュースは明るい。「名目賃金は2.5%増」「現金給与総額は月額35万7979円」「所定内給与の伸び率は1992年度以来の高水準」。メディアは「賃上げ」の文字を躍らせている。だが、その陰で消費者物価指数は3.0%上昇していた。賃金の伸びを物価上昇が上回り、労働者の実質的な購買力はむしろ低下しているのだ。

この「名目では増えているのに、実質では減っている」という乖離こそが、現代日本経済が抱える核心的な矛盾である。春闘で高い賃上げ水準が確認され、最低賃金も引き上げられた。それでもなお、スーパーのレジに立てば、コンビニの棚を見れば、毎月の光熱費の明細を見れば──生活は楽になっていない。

4年連続のマイナスは、単なる統計上の数字ではない。2014年以降、実質賃金がプラスだった年はわずか3回(2016年、2018年、2021年)しかない。約12年間の大半で、働き手の実質的な豊かさは後退し続けているのだ。

名目賃金と物価の「乖離の構造」

実質賃金のマイナスを理解するには、名目賃金の内訳と物価上昇の中身を分解して見る必要がある。

まず名目賃金の内訳だ。2025年度の現金給与総額は月額35万7979円で前年度比2.5%増。このうち、基本給や家族手当にあたる「所定内給与」は26万9631円で2.4%増。この伸び率はバブル崩壊直後の1992年度以来、33年ぶりの高水準だ。春闘の成果としてのベースアップ(基本給の底上げ)が着実に広がっている証拠と言える。

就業形態別に見ると、正社員などの一般労働者が2.9%増の46万9071円、パートタイム労働者が2.1%増の11万5027円。パートの時間当たり給与は1394円で3.8%増と、3年連続で3%超の増加を維持している。人手不足を背景に、非正規雇用の賃金上昇も進んでいる。

産業別の格差も注目される。鉱業・採石業が11.5%増とトップ、金融・保険業が6.3%増、複合サービス事業が5.1%増と続く。一方で、すべての産業で一律に賃金が上がっているわけではない。

問題は、この賃金上昇を「かき消す」物価の動きだ。2025年度の消費者物価指数(持ち家帰属家賃を除く総合)は3.0%上昇。4年連続で3%以上の上昇が続いている。品目別では、コメやチョコレートなど食料品を中心に値上がりが目立った。

労働政策研究・研修機構(JILPT)の分析によれば、2014年から2025年までの12年間で実質賃金がプラスだったのはわずか3年。日本の「賃上げ」は、物価上昇という荒波の中で、常に一歩前進して二歩後退する構図を繰り返してきたのだ。

2026年春闘と「賃上げの波及」の限界

2026年の春闘は、前年の歴史的な賃上げをやや下回るものの、依然として高い水準を維持した。所定内給与は共通事業所ベースで前年比2.7%増と、安定的な上昇基調が確認されている。2026年に入ってからは伸び率が2%台後半に切り上がっており、賃上げの土台は確実に固まりつつある。

しかし、波及の限界も見え始めている。

第一に、大企業と中小企業の格差だ。春闘の「回答水準」は大企業中心に報道されるが、実際の賃金交渉は企業ごとに行われる。売上高や利益率に余裕のある大企業は高い賃上げを実現できるが、利益率の薄い中小企業、とりわけ卸売・小売、サービス業の零細企業では、賃上げの余地が限られている。

第二に、中東情勢の悪化という新たなリスクが顕在化している。イラン情勢の緊迫化に伴うホルムズ海峡の事実上の封鎖は、原油価格の高騰とサプライチェーンの混乱を引き起こしている。第一生命経済研究所の新家義貴氏は「原油高や調達難が長期化すれば、冬のボーナスに影響が及ぶ可能性がある」と指摘する。中小企業では直近の業績動向を反映してボーナス額を決定するケースが多く、原油高の打撃を比較的直接的に受ける構造だ。

第三に、賃上げの「質」の問題がある。名目賃金が上がっても、物価上昇がそれを上回れば、実質的な生活水準は改善しない。これは働き手のモチベーションにも影響する。「頑張って働いても生活が楽にならない」という感覚が広がれば、労働意欲の低下、ひいては生産性の低下を招きかねない。

2026年度の展望──実質賃金はプラスに転じるか

2026年度の実質賃金がプラスに転じるかどうかは、極めて不透明な状況にある。第一生命経済研究所のメインシナリオでは、実質賃金は当面プラス圏を維持すると予想されている。2026年1〜3月期は本系列・共通事業所ベースともに実質賃金はプラス。2026年3月単月では前年比1.0%増(本系列)、0.9%増(共通事業所)と、3カ月連続のプラスを記録している。

名目賃金の安定性は比較的高い。26年春闘の賃上げは1年間継続するため、所定内給与の伸びは年度を通して底堅い。夏のボーナスについても、大企業では春闘交渉時に既に増額で妥結しているケースが多く、直近のイラン情勢の影響は限定的とみられる。

問題はやはり物価だ。足元では政府のガソリン補助金や電気・ガス代補助金がエネルギー価格を抑え込んでいる。しかし、イラン情勢に関連した調達難や流通の目詰まりを背景に、企業間取引段階での価格上昇がすでに始まっている。これが川下に波及し、消費者物価を押し上げれば、実質賃金は再びマイナス圏に沈む。

特に警戒すべきは秋以降だ。電気代・ガス代には資源価格上昇の影響が遅れて波及する。仮に資源価格の高止まりが続けば、冬場の光熱費の上昇はかなりのものになる。政府が補助金を大幅に拡充すれば物価上昇を抑えられるが、財政負担の持続性には疑問がある。

一方で、2026年度のGDP成長率は前期比年率2.1%と2四半期連続のプラス。個人消費と設備投資が増加を維持し、潜在成長率を上回る成長が実現している。イラン情勢が本格化する前の日本経済は、緩やかな回復基調を保っていた。

日本経済の構造的課題と今後の道筋

実質賃金4年連続マイナスという数字の背後には、日本経済が30年以上にわたって抱え続けてきた構造的課題がある。バブル崩壊後の「失われた30年」は、単にGDPの停滞だけを意味するのではない。働き手の実質的な豊かさが、長期にわたって侵食され続けてきた時代でもあるのだ。

実質賃金を持続的に上昇させるには、三つの条件が揃う必要がある。第一に生産性の向上。日本の労働生産性はG7中最下位が長年続いており、限られたパイを分け合う構造から脱却できていない。第二に物価の安定。賃金が上がっても物価が同じペースで上がれば実質賃金は改善しない。第三に為替の安定。円安は輸出企業には恩恵をもたらすが、輸入物価を押し上げ、実質賃金を圧迫する。

2026年現在、いくつかの前向きな兆しもある。労働市場のタイト化(人手不足)が、企業に賃上げを促す構造的な圧力として働いている。パートタイム労働者の時間当たり給与が3年連続で3%超の増加を維持しているのは、その表れだ。最低賃金の引き上げも、賃金の底上げに寄与している。

一方で、物価との競争は依然として厳しい。イラン情勢に端を発する原油高騰は、まさに今、その競争の激しさを象徴している。政府の補助金は痛みを和らげるが、根本的な解決ではない。

日本経済が「賃金と物価の好循環」を実現するには、賃上げの「量」だけでなく「質」を問い直す必要がある。生産性を高め、付加価値を生み出し、その成果を働き手に還元する。シンプルな方程式だが、実行は容易ではない。2025年度の実質賃金データは、その難しさを改めて浮き彫りにした。

4年連続マイナスは、しかし、終わりの始まりかもしれない。2026年1〜3月期の実質賃金は3カ月連続プラス。春闘の賃上げが年度を通じて波及し、政府の補助金が物価上昇を適度に抑えれば、2026年度は5年ぶりのプラス転換が現実味を帯びる。その成否を握るのは、中東情勢と、日本経済の底力──その両方だ。


参考URL:

  • 日本経済新聞「実質賃金25年度0.5%減、4年連続マイナス」
  • 労働政策研究・研修機構「2025年の実質賃金指数はマイナス1.3%」
  • 第一生命経済研究所「改善する実質賃金、持続性の鍵は物価」
  • 朝日新聞「実質賃金、4年連続マイナス 25年度」

title: "2025年度実質賃金4年連続マイナス──物価上昇に賃上げが追いつかない日本の現実"

date: "2026-05-23"

tags: ["経済", "労働", "実質賃金", "物価", "春闘", "日本経済"]

excerpt: "厚生労働省が2026年5月22日に発表した2025年度の毎月勤労統計調査(確報)によると、実質賃金は前年度比0.5%減で4年連続のマイナス。名目賃金は上昇しているものの、消費者物価指数3.0%上昇にかき消され、労働者の実質的な購買力は低下し続けている。本稿では、この乖離の構造、春闘の成果と限界、そして2026年度の展望を多角的に分析する。

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